<二宮コース> |
|
参加者が12:14の電車で集まり、まち歩きが開始される。
|
|
ガラスのうさぎ |
|
南口を出ると、すぐ目の前に「ガラスのうさぎ」像が目に入る。思っていたよりも小さいなとの印象だと思います。 胸に抱いているガラスのうさぎは、東京大空襲の焼け跡からでてきた江戸切子職人の父親が作った半分溶けた一体のガラスのうさぎだそうです。
|
|
|
<解説>「ガラスのうさぎ」の由来
太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。
この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。
|
|
「ガラスのうさぎ」像記念碑文より
|
|
*二度と戦争があってはならないと、永遠の平和を願う人々の浄財によって昭和 56年(1981年)、二宮駅南口に、この像は建てられました。 |
|
|
|
|
吾妻山山頂での菜の花見学と昼食 |
|
北口に行く。
吾妻山に向かう入り口には二宮町「菜の花祭り」のイベントとして、町民会館で地場産品販売会をやっていた。ここには入る予定はなかったが、興味を持ったのか見学がはじまり、みかんや地元のお菓子、さらにはワインまで購入。
吾妻山公園入り口から階段を上っていく。土曜なので混雑している。 |
|
|
|
|
|
300段の階段を登っていく。
その後もゆったりとした坂道が続く。途中には水仙の花も咲いているので、眺め、楽しみながら登っていくことができた。 水仙の花はもう少し早い時期がよかったかもしれない。
|
|
|
|
|
|
山頂には周囲を見学する展望台がある。そこからの360度の景色はよく晴れていた。菜の花越しの富士山、雪をかぶった丹沢の山々、相模湾も二つの顔、太陽の陽を反射し光り輝く海と濃い蒼色で静かに広がる海 を見せてくれた。
|
|
|
|
|
|
また大きな一本の木が力強く青空にそびえている。
山頂は枯れた芝で覆われている。今日はたくさんの見学者が来ていて、芝のうえで昼食をとっている。ビニールシートを引き、われわれも昼食開始。
ビールだけでなく、数本のワイン、さらに甘酒を持参してくれた人もいた。暖かい日差しの下で、相模湾の海を見ながら小一時間ほど昼食を楽しみました。
|
|
|
|
|
|
そろそろ大磯へ移動する時間になってきたので、後片付けをして、その場で記念写真を撮る。
|
|
|
|
|
|
二宮駅に吾妻神社経由で下っていった。
|
|
|
|
|
<参考>
吾妻山は、神奈川県中郡二宮町にある標高136.2mの山である。
名前は日本武尊が弟橘媛の笄(こうがい)を山頂に埋め、「吾妻はや」と嘆いたことに由来するといわれる。山の中腹には弟橘媛を祀った吾妻神社がある。毎年1月下旬から2月上旬には、山頂及び展望台あたりには菜の花は満開となるため菜の花ウォッチングのイベントが開催される。
|
|
|
|
<大磯コース> |
|
14:30ころに大磯駅に着く。すでに大磯から参加の二名はベンチに座り待っていてくれた。参加者19名を確認し、大磯まち歩きがスタート。 |
|
・アヲバトのポスター大きく貼られたる |
大磯駅より町に入りゆく |
|
|
|
|
島崎藤村の墓(地福寺) |
|
歩いて5分ほどのところにある地福寺に入る。梅の老木が何本もあり、梅の花が咲いている時期が楽しみです。
門を入って左側にひっそりと島崎藤村のお墓がある。墓碑も小さなものだ。 後で聞いたが土葬であり、奥さんとは別に埋められているという。しばらく見学。
|
|
・蕾いまだ固く小さし藤村の墓取り囲む梅の枝枝
|
|
|
|
|
<解説>
文豪島崎藤村の墓碑が、樹齢100年~200年の梅の古木約20本に囲まれて建てられています。毎年2月上旬頃より生前に藤村も愛でた梅の花が境内一面咲き誇ります。また毎年、藤村の命日の8月22日には墓参・献花が行われます。
藤村の読経・埋葬式は昭和18年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等多数の参列者に見送られました。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げました。棺には愛用していた筆や紙、タバコやパイプを、埋葬時には執筆中の『東方の門』を掲載した刷り上りの雑誌が入れられました。(昭和18年8月26日神奈川新聞より抜粋)」
昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなる。
|
|
|
|
|
ここからしばらく旧岩崎邸跡の古めいた塀に沿って歩いていく。
塀の上には水仙の花が咲いていた。
現在ここには、エリザベスサンダースホームや澤田美喜記念館などがある。高台の建物からは海が見えたのだろう。
|
|
|
|
|
|
新島襄終焉の地 |
|
そばの新島襄終焉の地を見学して、鴫立庵に向かう。
少し歩くと1号線に出る。井上蒲鉾店での買い物。多くの人がかまぼこ、はんぺん、などを購入。ここのはんぺんは吉田茂が愛した味で、大磯土産としてPRをした。
|
|
|
|
|
|
大磯照ヶ崎海水浴場(海水浴場発祥の地)の碑がある。
この辺の地名は、さざれ石という。照ヶ崎そばなので、このような地名なのか。
|
|
|
|
|
|
鴫立庵 |
|
日本橋から68kmの場所で、湘南発祥の碑もあった。鴫立庵の入り口は小さく、少し下っていく。小さな小川の橋を渡ると入り口。
建物は1700年頃に立てられ、その後何回か改修されている。昔の建て方で、夏を涼しくするため、部屋の引き戸や障子が対面ですっかり開くことができ、沢からの風が素通りできるようになっている。
|
|
|
|
裏庭には代々の庵主の句碑が飾られている。裏口にあった井戸の形も面白い。
鴫立庵の庭に入ると、一本の梅の木には白い花が早々と咲き始めていた。 |
|
|
|
|
<解説>西行法師ゆかりの鴫立庵
俳諧道場である。鎌倉時代の有名な歌人・西行法師が、「こころなき身にもあわれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という和歌をこの地で詠んだ。
江戸時代初期に、崇雪という俳人が、西行を慕って大磯・鴫立沢のほとりに草庵を建て、その後これが鴫立庵と呼ばれた。
「湘南」がどの範囲の地域かは、いろいろ議論があるが、崇雪は鴫立庵の脇に「著盡湘南清絶地」という標柱(1664年建立)を建てたことから、この付近を湘南と呼ぶ様になったとの説もある。
京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。
|
|
|
|
|
島崎藤村の旧宅 |
|
鴫立庵から大磯の住宅街をしばらく通り抜けていく。建物に入ると受付の女性が出てきて、どのような関係の方たちの集まりですかなどと聞き、受付台帳に記載している。女性から、この建物は3つの部屋があります。このひさしは普通のものよりも少し長めです。
この戸袋の形は半ひょうたん型です。この部屋から東海道の松並木を見ることができました。朝4時頃起きて海に散歩にいったそうです。普通のサラリーマンの
30年分の1万円でこの家を買ったとかいろいろと説明してくれた。ありがとう。
藤村が書を書いていた部屋の額と机が残されている。
小さな家の小さな庭も見学。
|
|
|
|
|
<解説>
*昭和16年2月28日に島崎藤村から静子夫人に宛てた手紙の中に、「昨日午後、例の大明さんより貰った草履をはき、志ぎ立沢まで歩き、久しぶりで好い散歩をしました。砂の歩き心地も実によかった。この調子では足も達者にならうと楽しみに思はれる。」と書かれています。
藤村と大磯の関わりは、この手紙の書かれた一カ月程前の昭和16年1月13日~15日にかけて、休養のため湯河原に訪れる途中、知人である天明愛吉や菊地重三郎に誘われ、大磯左義長見物に立ち寄った時に遡るものと思われます。
*昭和16年2月24日付のメモには、「大磯に家を借り受けておくことを思ひ立つ、大磯は温暖の地にて身を養うによし、時に仕事を携えて、かの海辺に赴くことゝす、余にふさわしき閑居なり。」と記し、翌25日に初めてこの邸宅を訪れてから後、大磯での生活が始められました。
|
|
|
|
|
東海道松並木 |
|
東海道線の線路に出、そこから一号線のほうに歩く。約5分で一号線にぶつかる。そこから右側の二宮方向に東海道の松並木が約500m残っている。7,8分ほど松並木を眺めながら進んでいく。実際の東海道の松並木は一号線のくだりの道だと思う。くだりの道の両側は松並木で挟まれている。
途中電柱の保護囲いの材料がはがれ、うまい具合に魚の形に出来上がっているのを案内人は紹介。 |
|
|
|
|
|
旧伊藤博文公の滄浪閣の手前の信号を渡る。一号線を少し戻り、右手の小道に入る。
この辺は明治の政財界大物(大隈、鍋島、徳川、山形、陸奥など)の別荘地帯だ。
ここを数分で抜けると、西湘バイパスにぶつかる。
ここから海岸沿いの道(太平洋岸自転車道利用)をゆっくりと歩き、大磯港のほうに歩いて行く。
ここから太平洋を一望でき、最終目的地の照ヶ崎の磯も良く見えた。
|
|
|
|
こゆるぎの浜 |
|
鴫立庵のそばで、こゆるぎの浜に下りていく。
風が強くなったのか波も力強く砂浜を打ち叩いている。
|
|
・小石多き浜に打ち寄す小さき波真白きしぶき足元に散る |
|
この辺の浜は小砂利が多く、さざれいし(細石)などの地名の元にもなっている。
|
|
|
|
|
<解説>こゆるぎの浜
古代から「よろぎ(ゆるぎ、こゆるぎ、こよろぎ)の磯」と呼ばれ、万葉・古今・新古今などの歌にも多く詠まれています。
明治期以降は政財界の重鎮や文豪たちがこの浜沿いに別荘を構えたほどのやすらぎの浜になっています。北浜海岸とは対照的に静かで素朴な風景が広がっています。
さざれ石の産地としても有名です。「さざれ石」というと、『君が代』を思い出す人が多いのではないでしょうか。大磯のさざれ石は、大磯海岸一帯で産出する目の揃った玉砂利のことをいい、さまざまな色をしていることから後年、さざれ石と呼ばれるようになりました。地名にもなっています。
江戸時代、大磯宿本陣当主「小島才三郎」は和歌山藩御用として大磯海岸産出の砂利の採取を命じられました。才三郎以外は一俵の砂利を採ることも許されず、才三郎の専売特許となり、小島家は東海道を通行する諸大名などに献上品の一つとしてこの大磯産出の玉砂利を用いていました。
さざれ石の名前の由来は、大磯海水浴場を開いた軍医松本順が、茶会の席で大磯の玉砂利を模した変わった形のお菓子を大変気に入り、そのお菓子に「さざれ石」と名付けたことがはじまりと言われています。
|
|
|
|
|
照ヶ崎 |
|
200mほどの砂浜歩きで、照ヶ崎の磯の近くに着く。
残念ながらアオバトは冬には訪れてこなく、5月以降でないと見ることはできないという。残念でした。
|
|
・アヲバトの群れ飛ぶ時期は過ぎしとふ岩礁を低く波は洗ひて |
|
・青鷺や青バトと聞けばこころ惹かる青に傾くわが感受性 |
|
|
<解説>~照ヶ崎の由来~
昔、蛸之丞という漁師が海中から引き揚げたタコが、光輝く千手観音に姿を変えました。この光輝く千手観音を引き揚げた海岸を“照ヶ崎”と呼ぶようになったと言われています。
また、関東富士見百景にも選定されている富士の見どころスポットです。アオバトの海水吸飲飛来地として神奈川県の天然記念物に指定されています。
|
|
|
|
<懇親会> |
|
大磯港めしやで懇親 17:00開始19:00解散
このお店は本日の提供可能なメニューを黒板に白墨で記載している。売り切れると横線で表示される(消される)。寒ブリのカマ焼きを二人が頼むと、すぐにメニューには売り切れの線が引かれた。その日の漁の結果でメニューが決まるというので、新鮮な魚を楽しむことができる。ヒイラギという小魚はおいしかった。 |
|
・魚飯屋に魚のカマなど突つく間を窓外に濃紺の夜は至れり |
|
|
|
85周年会 「まち歩きリスト」 に戻る |