85周年会の「まち歩き」記録

第34回 『世田谷線の沿線巡り』

    世話人からこんなメールでまち歩きが始まりました。
いよいよ師走。お天気に恵まれ、紅葉もなんとかもってくれるといいですね。豪徳寺のもみじが特に素晴らしいですよ。ただしこの時期、日没時刻が1年中で一番早いです(東京16:28)。なんと冬至の頃よりも早いのです。最後の世田谷八幡では足元が危なくなるかもしれませんので、万一のため、有志の方は懐中電灯を持参してくださると有り難いです。
ということで世田谷の沿線巡りのまち歩きと忘年会が始まりました。
[まち歩き]
日 時:
2012年12月8日(土) 集合場所:田園都市線三軒茶屋駅中央改札 集合時間:13:00
ルート: 《 》は世田谷線、1日乗車券(320円)を使用。
① 三軒茶屋・大山道標~《三軒茶屋 ②(車窓から)目青不動~松陰神社前・・乗車5分》~③松陰神社~《松陰神社前~上町・・乗車2分》~④代官屋敷・ボロ市通り~⑤世田谷城址公園~⑥豪徳寺~烏山川緑道経由⑦世田谷八幡宮~《宮の坂~三軒茶屋・・乗車10分》~⑧キャロットタワー26階⑨17:40三軒茶屋駅前「流庵」にて忘年会
参加者: 22名 (懇親会参加者:21名)
[世 話 人] 案内人:脇田、松木(017D)
歩数:集合場所から忘年会会場まで9500歩。GPSによる三軒茶屋から宮の坂で電車に乗るまでの間の足跡は以下の通り。電車片道分を入れて、移動距離は6.8km。

三軒茶屋
田園都市線の三軒茶屋駅中央改札に集合。この駅の壁はタイル張りで、レトロな雰囲気。階段を上りきると、この辺は大山詣の分岐点(追分)にあたり、大山道標がその分岐点に残る。江戸時代は大いに賑わい3軒の茶屋「信楽(しがらき)(後の石橋屋)」「角屋」「田中屋」が出来た。今も田中屋(堀江家)が同じ場所でせともの屋さんを営んでいるのでちらっと見物。懐かしい。
細い路地のすずらん通を横目に見て、進む。三軒茶屋は三軒の茶屋があったからとの歴史説明がある。
茶屋は、皆座敷に膳を整え、茶屋娘をおく立派な構えの料理茶屋でしたが、一方、店の前に床机を並べ、葭簀(よしず)を立てて、道行く人々にお茶の接待もしていました。
○世田谷線の今
1996(平成8)年、三軒茶屋に26階のシンボルタワー「キャロットタワー」が建ち、三軒茶屋駅がタワー内に移動したため、田園都市線の駅からはかなり離れることに。ちなみに新駅は「関東の駅100選」の一つ。選定理由『煉瓦造りの高層ビルの中でヨーロッパ風の駅舎にレトロな路面電車が走る駅』。
世田谷線というと緑色のレトロな車体を思い浮かべるが、2001(平成13)年までに全て姿を消し、今は10色あるというカラフルな新車となり、新車導入にあわせて全ホームがバリアフリーに。また最近は車掌さんが若い女性に変わるなど、ここ何年かで一気に新しくなった。
三軒茶屋駅の駅舎は煉瓦造り。ターミナル方式で、電車が入って、出て行く。青、赤と何色もの色がありそうだ。車掌は女性。赤い色の電車に乗り込み、世田谷線巡りが始まる。下高井戸行き13:35発。

目青不動(天台宗)
江戸五色不動の一つ。時間の都合でやむを得ず車窓から拝むだけとなった。三茶駅を出発したらすぐ。進行方向右側。左奥の大イチョウは必見。
○世田谷線の歴史
正確には東急世田谷線。全長わずか5キロ、片道17分、その間に10駅がひしめく。三軒茶屋で田園都市線、山下で小田急線豪徳寺駅、下高井戸で京王線と接続し、運行本数も多く便利。小さな車両でけっこう混んでいる。
1907(明治40)年、玉川電気鉄道によって大山街道(国道246)上を道玄坂上~三軒茶屋が開通して、世田谷に初めて鉄道が走る。同年に渋谷~玉川(今の二子玉川)間が全通(玉川線)。 多摩川の砂利を都心に運ぶのが主体で、別名「ジャリ電」と呼ばれた。1925(大正14)年、時代の需要とともに玉川線の支線が次々と開通される中、そのひとつとして三軒茶屋~下高井戸が開通(下高井戸線)し、これが後の世田谷線となる。
玉川線は戦後も「玉電」の愛称で沿線住民の足として愛されてきた。しかし路面電車の悲しさ、高度成長期の車社会の波に押され、玉電は「ジャマ電」などと揶揄されるようになり、廃線へと向かうことになる。1969(昭和44)年、ついに玉電は姿を消す。唯一廃線を免れたのがこの三軒茶屋~下高井戸の支線であった。専用軌道であり、代替バスを運行できる道路がなかったためという。路線名も新たに「世田谷線」と改称した。

松陰神社
安政の大獄で打首となった長州藩士吉田松陰の墓所。30歳の若さで刑死。明治15年に神社となった。松蔭神社の御祭神は吉田寅次郎藤原矩方命と書かれている。
卍というとやはり仏教のイメージが強く、神社なのになぜ卍なのか。神紋は松陰の家紋である「五瓜に卍(ごかにまんじ)」紋である。彼は五歳で生家の杉家より、長州毛利藩の軍学師範の家柄の吉田家の養子になった。この家紋はその吉田家の家紋である。
松下村塾
ここの松下村塾は、山口県萩の松蔭神社境内に保存されている松下村塾を模したものだ。
石灯籠 & 吉田松陰先生他烈士墓所
境内には32基の石灯籠が並んでいる。毛利元昭公はじめ松陰門下の伊藤博文、山県有朋などより明治41年(1908年)に奉献された。文字は書家高田竹山によるもの。真っ赤なもみじの紅葉が目を楽しませてくれた。
桂太郎墓所
神社に隣接して桂太郎の墓(日露戦争時の首相、同じ長州藩萩の出身で神社の隣に葬るよう遺言)。66歳でなくなる。

代官屋敷(国の重要文化財)とボロ市(都無形民俗文化財)
電車で次に移動。
代官屋敷はボロ市通り(旧大山道)にあり、井伊家世田谷領の代官だった大場家屋敷。国の重要文化財である大場家表門と代官屋敷主屋。庭にはかりんの木があり、大きな黄色い塊が落ちている。
代官屋敷の敷地内にある「世田谷区立郷土資料館」本館も世田谷区役所と同じに前川國男の設計で有名だ。
ボロ市は世田谷城下で始まった楽市を起源とし430年以上の歴史を持つ。毎年12月15・16日と1月15・16日にこのボロ市通りで開催され、1日に20万近くの人が集まるという大混雑。「世田谷ボロ市」という名前の焼酎がある。ただし鹿児島産だった。

世田谷城址公園(都史跡)
“都内に残る埋もれた古城”室町時代の城閣跡で城主は吉良氏。秀吉による小田原落城と運命をともにした。豪徳寺あたりが本丸で世田谷八幡が出城とされる広い城域があったが、今はこの一隅にその片鱗を残すのみ。空堀と土塁はなかなかのもの。ここで全員の記念写真を撮る。

豪徳寺(曹洞宗)
世田谷城の主要部だったとされ、寛永年間に井伊家の江戸における菩提寺となった曹洞宗大溪山豪徳寺。少し遅い紅葉の中で三重塔が落ち着いた感じで建っている。
三重の塔の4面に3つずつ干支の動物が飾られている。ここではねずみの代わりに猫が飾られ、猫の両隣にねずみも彫られている。右は2013年の干支の蛇。
招き猫発祥の地としても有名で、お寺では大小の招き猫が売られている。彦根城の「ひこにゃん」はこの招き猫が由来。2号(約6cmの高さ)の招き猫が人気。招福猫の奉納所には大小の多くの招き猫が奉納されている。中には外来種のようで、ここで売られていない猫も混ざっていた。
三重塔のそばに赤でなく黄色に黄葉したもみじがある。お寺の左奥が彦根藩主井伊家の墓所。安政の大獄を断行した大老・13代井伊直弼の墓は都史跡に指定。やった井伊直弼とやられた吉田松陰が歩いても15分という距離に眠っている!

世田谷八幡宮
1091年、後三年の役を平定した源義家が戦勝を祝してこの地に勧請したのが始まりとされ、世田谷城を築いた吉良氏が氏神として崇拝した。境内の土俵と力石(力比べの石)が見もの! 豊作を祈って奉納相撲が行われ「江戸三大相撲」の一つといわれた。現在も9月にはこの土俵で農大相撲部による奉納相撲が行われる。
まち歩きを終え、最終地キャロットタワーへ向かう。宮の坂駅に昔の玉電の車両が展示されていて中に入る。決して貸切ではありません。世田谷線で一路終点の三軒茶屋へ。

キャロットタワー26階
21人が1台のエレベータに全員詰めて仲良く乗り込み、シンボルタワー「キャロットタワー」の26階に一路昇っていく。富士山がかすかに見える。下方には先ほどの世田谷線を、小さな電車が窓から光を漏らして走っているのが見える。しばらく宵闇の景色を楽しんだ後は、そばの忘年会場へ移動開始。一転、賑々しい夜の繁華街。このギャップを楽しむ。
 
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