85周年会の「まち歩き」記録
第 35 回 (番外を含めた通算 第 43 回)
山手線の歴史をたどる - その1
今回は これまでのまち歩きとは一風変わった内容で、大正や昭和初期に発行された地図を見ながら、山手線の駅や線路のガードを見て歩くというもの。

約一世紀前の われわれが生まれる前の時代であっても、地図をよく見ると、今とは違う当時の様子が伺える。 単線から複線、複々線化に伴う変化や、環状運転開始時に6両で始まった電車が 11両編成まで増加したことによるホームの成長など、山手線に関係する様々な歴史のほかに 街の変化にも注目する。
日 時 : 2013年2月23日(土) 集合場所:JR田端駅南口、14:30 集合
ルート : 田端駅南口 → 田端駅北口 → 田端ふれあい橋 → 新田端大橋 → 東台橋 → 童橋 → 東臺通りを北へ → 田端跨線線路橋 → 道灌山トンネルの跡 → 富士見橋 → 新幹線車両基地 → 中里隧道 → 北区リサイクルセンター → 中里第二踏切 → 第一踏切跡 → 中里用水架道橋 → 駒込駅 → 駒込橋 → 染井橋 →巣鴨駅、 電車で大塚駅に移動
参加者 : 22名、  打ち上げ : 18名
案内人 : 高橋俊一 ( 019 )

集合 : 田端駅 南口
真冬ということで天候が心配されたが、きれいに晴れ渡り 風も穏やかでほっと胸をなで下ろす。 日頃なかなか利用する機会のない南口だが、全員 場所・時間を間違えることなくほぼ定刻通りスタート。
まず、本日の資料(大正10年、昭和4年の地図と 年表)が案内人から配られた。 当時の地図は1万分の1で、1センチが 100mなので わかりやすい。 
(注 : 渡された地図は著作権の関係で全体を掲載することができないため、報告書では 案内人から提供を受けた一部分だけを掲載する。 400 × 300ドット以下なら、許可不要。)
田 端 駅
南口の石畳の小さな駅前広場で山手線の歴史の概要説明を受ける。
明治29年に田端駅が開業した当時は、まだ山手線はなく その後 現在の駅を造るために、ずっと北側の位置に仮駅舎があったことを知る。 線路が増えるにつれて台地を削りながら内側に拡張していったということだ。 改造工事は、電車等の営業をしながら行われたということに、改めて感心させられた。

北口に向かって移動する。 途中で 崖の上から下を見下ろしながら古レールを利用したホーム上屋の説明などを聞く。 二つのホームが同時に造られて、間がつながれている駅はいくつかあるが、田端駅が一番 美しいのだそうだ。

田端大橋
北口に下りる前に 階段の途中で田端大橋の説明がある。 田端ふれあい橋(人道橋)と新田端大橋(車道)が平行して架かっているが、その理由と歴史も知ることができた。 北口に出ると ここが見慣れた田端駅だ。 アトレが開業してからすっかり近代的になった。 この近くが地元という人も多く、思わず思い出話も飛び出した。
特に、田端ふれあい橋(旧田端大橋、1935年・昭和10年に完成)は、ゲルバー式現場全溶接鉄骨橋で、土木遺産に認定されているとは皆知らなかった様子。 上写真 右、下写真 左。

ふれあい橋の下に下り、全現場溶接鉄骨橋をこの目で確かめる。 橋の下は自転車置き場になっており、通りすがりの人からは「何を見てる?」と不審がられる。
もう一度橋の上に戻って、今度は新田端大橋を渡って北口に戻り、別の階段を上ってふたたび台地の上へ。 駅前からの道には東台橋が架かっている。

東台橋 と 童橋
旧田端大橋が開通した頃に 新しく道が切り開かれ、東台橋と童橋が架けられた。 このため 昭和4年の地図には まだ切り通しが存在していない。 
1929年(昭和4年)の田端駅付近/ 国土地理院
・・・・が この後新しくできる道と 田端大橋。 地図サイズ 400 × 279
現在の東台橋は近年に架け替えられている。 橋からは先ほど渡った二本の橋が見渡せる。




人道橋の童橋はオリジナルで リベット止め。 
ここの切り通しは 最低限の幅しかなく、石垣に挟まれて圧迫感がある。

この時点で ほぼ 1時間を経過しているのに、まだ田端。 このペースで大塚駅まで辿り着くのか不安の声があがるが、「予定通りです」と案内人は動じる様子もない。
ここからは縦1列になって東臺通りを進む。
 
田端跨線線路橋 と 田端トンネル
住宅街の路地の入り口で、案内人からこれから見に行く 跨線橋についての説明を聞く。
行き止まりになっている崖の上から山手線を見下ろすと、両側の鉄桁が完全にずれている、珍しい平行四辺形の跨線橋を見ることができた。 解説を聞いてから眺めるとなるほど面白い。 京浜東北線と鋭角に交差しているためにこうなったとのこと。
右側の田端トンネルを出た 京浜東北線北行き電車が、山手線をく ぐって行く。

道灌山トンネル跡
富士見橋に進むと 「ここが今日の一番の見所です」との説明。
土手を見ると、途中に小さな煙突のような煉瓦が。 なんとこれが道灌山トンネルの遺物だということだ。 そんなものが山手線の車両からも見える位置にある。 残念ながら富士見橋は金網があり、写真を撮るには一苦労だ。
旧線路は、現在の山手線(左側)よりも、ずっと低い位置にあった。
案内人から道灌山トンネルの当時の写真(書籍コピー)を見せられると、確かにトンネルに見えてくる。 昭和4年の地図では、線路が無くてトンネルの記号だけが載っている。( 印)
戦後しばらくして、戦災の瓦礫で埋められたのだそうだ。
1929年(昭和4年)の道灌山隧道 跡 / 国土地理院
地図サイズ 400 × 279

さきほど東台橋の切り通しを見ている参加者から、「なぜ ここも切り通しにしなかったのか?」という質問が出る。 案内人は 恐らく と前置きして、「このトンネル工事は1902年(明治35年)なので、まだコンクリートが普及していない時代で、橋自体も木造が主流だったと思います。 高い位置にある東台通りを通すためには”レンガ造”の背の高い橋台や控え壁を造らなければならないので、トンネルにした方が楽だったのではないか?」という答えだった。 
富士見橋を渡った 山手線の外側から。 道路のレベルは当時と変わっていないはず。

中里トンネル
次は 湘南新宿ラインが通る現役のトンネル。 JRの社宅だったアパートが お洒落なタウンハウスにリニューアルされた所を見ながら歩くと、この下にトンネルで線が通っています、という説明が。 思わず足元を見る。
手前で東北新幹線車両基地を見下ろすと、なんと デビュー前の秋田新幹線スーパーこまち 「JAPAN RED」 が停まっている。 鮮やかな赤色に思わずラッキー!

少し進んで、トンネルの出口を見る。
竣工は田端トンネルと同じ時期で、1928年(昭和3年)
中里トンネルは 山手線が複々線化された時に、旧山手線を貨物線として使うために北側に接続されたもの。 その遺産が 関東の南北を繋ぐラインに引き継がれており、本数は少ないが、コンテナを中心に貨物列車も通っている。

富士見橋に戻って、北区のリサイクルセンターでトイレ休憩。 また山手線に沿って進み、先程見た中里トンネルの反対側を見る。

道灌山跨線線路橋
ところが ここでも立体交差で、山手線の跨線橋がじゃましてトンネルの入り口はよく見えない。 「跨線橋付近の線路の両側には都市計画道路が整備されているので、いつの日か ここに新しい橋が架けられて、次に見に行く 山手線最後の踏切が無くなるだろう」との説明がある。

となると、貴重な?踏切を渡るのもありがたみが増すというものだ。 ここからは、巣鴨駅の先まで ほぼ山手線に沿った見通しの良い道になる。

中里第二踏切
今や 山手線唯一の踏切で有名。 電車が通るたびに、皆 写真を撮りまくる。 なぜか、昔懐かしい?汽車のマークの交通標識も残っていた。

中里第一踏切 跡
第二踏切が残っているということは、「第一踏切」があったということ。 廃止されたのは平成になってからだった。 ここで集合写真を撮る。 すでに用事のある二人が抜けている。
踏切があった証拠あるいは記念として、金網には『高電圧電線 注意』のプレートが残されている。(写真の右側) JRも歴史を大切にしているようだ。 
ここで誰かが錆びた犬釘を見つけた。
1929年(昭和4年)の中里踏切 / 国土地理院
地図サイズ 400 × 291

中里用水架道橋
いよいよ駒込駅に近づくと、元々は中里用水(川)だったという架道橋もあった。 今は道路だが、ここが川を渡る鉄橋だったことは地図 を見ればはっきりする。 暗渠化される前の谷田川(下流では藍染川)である。 珍しいのは 桁を支える橋台の、4分の1だけがレンガ造 つまりオリジナルであること。 複々線化の時に今の山手線が増設され、同時に幅も広げられたためだろう、ということだ。
ガード脇には 昔の欄干らしきものが残されている。

駒 込 駅
駅の途中から急な上り坂となって、山手線は掘り割りとなる。 
駒込駅のホームを見ると車両数が増えるにつれて延長されたことがありありとわかる。 複々線化時は6両だったが 現在は11両、ほぼ倍増しているわけだが、すべて田端側に延ばしたので成長ぶりが分かり易い。 写真は田端方向を見ている。 左側が 新駅6両時の端部、右方向に 3回の延長が行われた。 屋根の形も違っている。


駒込駅のプラットホームを見終えてようやく「ひと駅」、山手線に乗れば3分だが、何と2時間以上が経過した。 さすがに案内人も大塚までは難しそうだと・・・・。 初めはよかったのだが、人数が多いために、移動や説明に予定よりも時間が掛かったようだ。

染 井 橋
本郷通りに架かる駒込橋を横切って、そのまま線路沿いに進むと すぐに染井霊園に続く道に出る。 付録地図を参照すると ここは岩崎邸の敷地の一画で、なぜ駒込橋のすぐ近くにかけられたのか、ここだけ線路沿いの道が無いのかも納得できた。

付録地図は 六義園と小石川高校を含むもので、1918年(大正7年)に創立された「第五中学校」が、1921年(大正10年)の地図に載っているのを見て 皆 感心しきり。

最後は山手線を利用!
やっと巣鴨駅にたどり着いたのが4時45分となった。 5時からの宴会に間に合わせるために、ここからは電車に乗るか 走って大塚まで行ってください! ということに。 誰かの心配の通り、本日のまち歩きは巣鴨駅で打ち切りとなってしまった。


今回参加するにあたって、案内人の高橋さんが作っているホームページ 『山手線が渡る橋・く ぐる橋』 を 簡単にながめておいたのだが、説明を聞きながら実際に見ると ずいぶんと印象が違って、日頃何気なく利用している山手線にも 全く知らない歴史があり、その気になって眺めればいろいろな遺構があることを知って、楽しい半日だった。 

山手線巡りはシリーズ化されるということなので、是非 また 参加したい。
 
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