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85周年会の「まち歩き」記録 |
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第 39 回 『 品川 今昔 』 |
(番外編を含めた通算 第 47 回) |
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宿場町であり漁師町でもあった品川。
その昔、江戸から西国へと旅立つ人は、最初の宿場である品川で見送りの家族・知人と宴を催し、別れを惜しんだ。 反対に西国から上って来た旅人は、品川で身支度を整え、それぞれの訪問先へ向かったそうだ。
品川宿は東海道沿いに細長く延び、目黒川に架かる「中の橋」を境に、北品川宿と南品川宿に分かれていた。 道の両側には旅籠が軒を並べ、吉原と張り合うほどの遊郭もあったという。
報告書の文章は、主に、事前にメールで配布された案内人の説明書を利用している。
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日 時:
ルート:
参加者:
案内人: |
2013年8月17日(土) 集合場所 : 品川駅、 集合時間 : 3時
品川駅 → 八ツ山橋 → 旧東海道 土蔵相模 → 品川本陣跡 → 品川橋(目黒川) → 天妙国寺 → 池上通り交差点 → 品川寺 → 川まで戻って、江原神社
→ 東海橋 → 山手通りを西へ、東海禅寺前 → 東海禅寺大山墓地 → 山手通りを戻って、品川神社 → 懇親会会場 : 品川港南口
17名 (懇親会 : 16名)
笠井 ( 014 C ) |
スタート |
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お盆休み中の夏真っ盛りにまち歩きしなくても、という声をよそに 3時の集合時間に 16名が揃う。 ドタキャンも数名あったが、急遽参加もあり 賑やかな顔ぶれだ。
カラーA3印刷の分厚い資料も配られて気分が盛り上がるが、案内人が来ない。 何かあったのか心配していると、「いやぁ、忘れ物しちゃって」と案内人登場。
女性陣は帽子に日傘と日焼け対策も怠りなく、 それでは出発。 |
八ツ山橋 |
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高輪口を出て線路沿いに進む。御殿山を右手に見ながら八ツ山踏切で、京浜急行の電車を眺める。 八ツ山橋は東海道線・京浜東北線・新幹線などをひと跨ぎにする大きな跨線橋で、「八ツ山」の名は ここにあった小山に由来する。 幕末期、品川沖にお台場を造るに当たって、この山を崩して大量の土を取ったため、名前だけ残して姿を消してしまったということだ。 |
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京浜急行の次の踏切を渡り、ここから旧東海道に入る。
注目は、電線が無い事。 国道など 広い道では見かけるが、商店街では珍しい。 トランスを置くための 電柱だけは新規に設置されている。 |
北品川宿 |
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いつもはまち歩きの人たちで賑わう旧東海道だが、さすがに今日は歩く人も少ない。でも 午後3時スタートのおかげで、建物の陰になることが多く、暑さをしのげる。
商店街になっている旧東海道を少し行くと、左手に「土蔵相模跡」の碑。 「土蔵相模」は遊郭を兼ねた大きな料理屋で、映画史に残る傑作「幕末太陽伝」はこの店を舞台にしていた。( 監督・川島雄三、助監督・今村昌平、浦山桐夫。 フランキー堺・小沢昭一・石原裕次郎・小林旭・左幸子・南田洋子・芦川いづみ等が出演
)
現在は、マンションとファミリーマートになっている。 |
品川宿本陣跡 |
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旧東海道をさらに進むと、聖跡公園(品川宿本陣跡)に出る。 ここで 休憩と記念撮影。 女性陣は準備よく、塩分補給のための塩飴や梅干しを用意してきていて、皆に配ってくれる。 |
中の橋 |
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山手通りを渡って少し進むと、目黒川にかかる「中の橋」( 別名・堺橋、現在名は 品川橋) に出る。 目黒川が見えたところで、文房具屋の店先に帽子(キャップ)を発見。 帽子を忘れた1名が買いに走るが、なかなか出てこない。 何かハプニングがあったらしい。 |
南品川宿 |
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ここを境に北品川宿から南品川宿となる。 道の左右にやたら寺社が多い。 品川に寺社が急増したのは明暦の大火(1657年)以後のこと。 「振り袖火事」とも呼ばれるこの火事は、江戸城本丸をはじめ市街の大半を焼き尽くし、10万人もの死者を出した。 幕府は道幅を拡げるとともに、空地をつくって延焼を防ぐ都市計画を作成し、町内の寺社を(当時の)郊外へ移転させた。 品川や谷中は、その受け皿となった地域なのだ。
江戸の川柳に、「品川の客 にんべんのあるとなし」というのがある。「寺」という字に「にんべん」を付けると「侍」。 品川遊郭に登楼する客には、坊さん(寺)と武士(侍)が多いことをからかったのだ。 |
天妙国寺 |
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そのひとつ、「天妙国寺」に立ち寄る。 家康も江戸入城の前に宿泊したという由緒ある寺。 ここには浪曲の祖といわれる桃中軒雲右衛門、剣客・伊藤一刀斎、お祭り佐七、切られの与三郎こと
芳村伊三郎の墓があるそうだ。
お盆休みで里帰りしている魂も多いのか、墓はひっそりとしていた。 |
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旧東海道の道沿いは、八百屋と花屋が多いと思いながら歩いていくと、やがて「青物横丁」に出る。 交差点の街灯は エンドウ豆をデザインしたもの!
ユニークな地名は、これから行く「品川寺(ほんせんじ)」の脇道で、近隣の農民が 野菜などを商う市場を開いていたことにちなんだもの、ということだ。 |
品川寺 |
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ジュネーブ平和通りという名の道を渡ってさらに進むと、その品川寺がある。 ここには江戸六地蔵の “一番” とされているお地蔵さまがある。 (他は浅草・東禅寺、
新宿・大宗寺、 巣鴨・真性寺、 白河・霊岸寺、 深川・永代寺) |
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品川寺の梵鐘には面白いエピソードがある。 1871年のウィーン万博に展示されたこの梵鐘は、万博終了後に行方がわからなくなってしまった。 維新の動乱期で管理がズサンだったらしい。 ところが昭和に入ってジュネーブの美術館で発見され、返却された。 「洋行帰りの鐘」と評判になり、“失せもの探し”
にご利益があるという。 さきほどのジュネーブ平和通りはこれにちなんでつけられたということだ。 |
荏原神社 |
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旧東海道を目黒川まで戻ると 品川の総鎮守 「荏原神社」がある。 |
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聖跡公園とここは、23回の目黒川お花見のまち歩きでも立ち寄った場所だ。 小休止とする。 ここで旧東海道を離れ、目黒川沿いに第一京浜まで出ると東海橋がある。
山手通りを西に進むと これも前回寄った「東海禅寺」があるが、今回はスルー。 この東海禅寺の元「東海寺」の墓地は東海寺大山墓地として少し離れた場所にある。 |
品川学園 |
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東海禅寺の向かいに 旧品川小学校がある。 |
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品川区は2003年に小中一貫校の特区として認定され、2006年から一貫校が始まっていて、すでに5校が開校している。 昨今は、小・中・高の一貫校も話題になっており、小石川も一層 特色を出していかなければならないだろう。 東海道線をく ぐって墓地へと向かう。 |
大山墓地 |
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東海寺は江戸時代初期に徳川家光が創建した寺で、かつては壮大な寺領地だった。 大山墓地には、初代住職の「沢庵和尚」、「賀茂真淵」、日本の鉄道の父「井上
勝」などの墓がある。
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今も 東海道線・山手線を見下ろす場所に眠る「井上 勝」の墓を尻目に、皆の注目を集めたのは、説明書にはなかった島倉千代子の墓(生前墓)である。 流雅之のデザインらしい。 その度肝を抜く大きさ! ちなみに、島倉千代子は北品川出身で、青物横丁駅の電車接近メロディは、島倉千代子の「人生いろいろ」だということだ。
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東海道線を完成させて「鉄道の父」と呼ばれる 井上 勝の墓地は、生前に井上自身が選んでいたものだが、東海道新幹線の建設までは予測できなかった。 建設に際しては何とか墓を動かさないように、と苦労してギリギリを通したようだ。
沢庵は死の間際に「夢」の一字を書き残し、「墓は無用」と遺言した。 そうもいかず 大きなタクワン石を置いた墓が作られたが、さすがにその面積は、島倉千代子の比ではない。
大山墓地を後にしようと人数を数えると1名少ない。 沢庵和尚の墓地まで戻って見に行ったが いない。 携帯電話をかけてみると「足を痛めて動けない」と言っている。 熱中症かと心配したが、大事には至らず合流することができた。 |
品川神社 |
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ここから、第一京浜沿いに移動し品川駅に向かう途中で 最後の見所である品川神社に登った。 もとはといえば、東海寺の鎮守として創建されたのだそうだ。 第一京浜をすぐ見下ろす場所に立派な富士塚があった。 |
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そろそろ夕暮れが近づいてきたので、品川駅 港南口の打ち上げ会場に向かい、中華料理のオーダーバイキング&飲み放題。 おいしいビールで乾杯した。
真夏のまち歩きだったが 時に曇り空となることもあり、心地よい風にも恵まれて、無事に日程を終えることができた。 |
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