85周年会の「まち歩き」記録
第44回 『 渋谷 まち歩き 』 (裏渋谷の歴史を探して)
(番外を含めた通算 第 54 回)

その昔、「川一つ、丘五つ、谷二十」といわれた渋谷は、すり鉢のような地形をしている。 渋谷駅がある場所は、その鉢底にあたるので、どこへ行くにも坂を上らなくてはならない。 今回は、裏渋谷の歴史を探して歩こうというものでした。

日 時 : 2014年7月12日(土) 渋谷駅 ハチ公前、 14時 集合
ルート : 渋谷駅 → センター街 → 宇田川町 → 国木田独歩住居跡 → 2・26事件慰霊像 → 松濤町 → 観世能楽堂・戸栗美術館・鍋島松濤公園 → 松濤美術館 → オーチャードホール → 百軒店 → 道玄坂 → 恋文横丁 → 稲荷橋 → 金王八幡宮 → 白根記念 渋谷区郷土博物館 → 氷川神社 → 温故学会会館 → 広尾小学校 → 福昌寺の花供養塔 → 庚申橋
  → 懇親会
参加者 : 20名 、 懇親会参加者 : 18名
案内人 : 笠井さん ( 014 )
歩 数 : 15,710歩(参加者の報告による)

それでは スタート
なお 今回の説明は、笠井さんの案内説明書の文章を利用させていただいています。

集合場所のハチ公は外人にも有名になっていて、一緒に写真に撮られていた。

渋谷の始まり
渋谷氏が築いた渋谷城に始まる。 平安時代、八幡太郎義家に従って奥州に遠征し、大きな軍功があった河崎基家は、当時「谷盛」と呼ばれていた。 渋谷の地を賜り、城を築いた。谷盛は七つの郷(渋谷郷・代々木郷・赤坂郷・飯倉郷・麻布郷・一ツ木郷・今井郷)に分かれ、城は渋谷郷にあったことから「渋谷城」となり、河崎氏も基家の嫡子・重家の代から渋谷姓を名乗るようになった。

センター街 と 宇田川町
まず、若者の街「シブヤ」を象徴する通り「センター街」に入って行こう。 先年、「バスケットボール・ストリート」という訳のわからないネーミングを提唱したが、誰もそんな名で呼んでいない。
あたりを宇田川町というが、その名のとおり「宇田川」という川が流れていたのだ。 少し上流に大向橋、松濤橋という橋があり、大向橋の近くには大岡昇平が、松濤橋の近くには竹久夢二が住んでいた。
支流の1本に「河骨川」という小川があり、渋谷に住んだ国文学者・高野辰之がこの川の流れを童謡の歌詞にしている。 ご存知「春の小川はさらさら流る、岸のすみれやれんげの花に、・・・」というあの歌である。 美しかった宇田川も時代とともに濁り、ついには暗渠となってしまった。

国木田独歩 住居跡
NHK放送センターの先は、織田フィールド、サッカー場、代々木公園など広大な施設が集まっているが、それはここが旧陸軍の練兵場だったから。
だが、公園のほうへは行かず、NHKの手前を右へ折れると、アメリカン・ビジネスを展開する「アムウェイ」の堂々たるビルがある。 場違いなことに、そのまん前に「国木田独歩住居跡」の標柱が建っている。 明治30年代、ここに住んでいた独歩は、世田谷方面へ散歩しながら名作「武蔵野」の構想を練ったという。 当時の渋谷には武蔵野の面影が色濃く残っていたのだ。

2・26事件慰霊像
渋谷税務署の横にある大きな観音像は「2・26事件慰霊像」。 

あたりには陸軍の衛戍監獄があり、決起した青年将校らはこの場所にあった刑場で銃殺刑に処された。 将校たちに襲われて命を落とした犠牲者をも含め、関係者全員の霊を弔うため、昭和40年に有志によって建立されている。

松濤町 : 松濤は銘茶の産地だった
少し戻ると都内きって高級住宅街「松濤町」に入る。 江戸時代、この辺には大名屋敷が多かったが、明治になるとさびれ、茶畑になってしまった。 「渋谷茶」「代々木茶」と呼ばれ、なかなか上質の茶だったという。 わけても、紀州徳川家の下屋敷を買い取った鍋島侯爵家が開いた茶畑「松濤園」のお茶は有名で、当時のブランド品だったが、昭和初期に鍋島家がその土地を軍人や官僚に分譲したことから、高級住宅地・松濤町へと変わっていった。 また、松濤園には都内に珍しい湧水池があったので、都と渋谷区が「鍋島松濤公園」として整備した。

町内には「観世能楽堂」「戸栗美術館」「松濤美術館」などがある。 

文化村 Bunkamura
松濤から「Bunkamura 通り」へ下りていくと東急本店がある。

Bunkamura の前で休む。 この右前の三角形の屋根の家のあたりが、ハチ公の飼い主・上野栄三郎博士の住んでいた所だ。 ここからハチ公をお供に、いまのBunkamura 通りを渋谷駅へ向かったのである。 渋谷駅前のハチ公像は帝展審査員・安藤 照(てる)によって制作され、昭和9年に盛大な除幕式が行われた。 その時、ハチ公はまだ生きており、自分の銅像をきょとんと見上げていたという。

百軒店
松濤郵便局前からラブホ街を抜けると「百軒店」(ひゃっけんだな)となる。

関東大震災に際し、渋谷は比較的被害が少なかったので、銀座や日本橋から逃れてきた有名店が、道玄坂中腹の中川伯爵邸跡に店を並べた。 これが「百軒店」の起こりである。
復興が成ると有名店は去っていったが、その後に数多くの飲食店が入り、街は賑わった。 近年、渋谷の街は変貌が激しいけれども、地権が入り組んで再開発がままならぬためか、この一帯だけは昭和の雰囲気を残している。

道玄坂 と 恋文横町
道玄坂は明治の末頃まで、畑の中のさびしい道だった。 名前の由来は、北条氏に敗れた和田義盛の一族・大和田道元の残党がこの辺りで山賊になっていたとか、道玄寺という寺があったとか、道元太郎という者が住んでいたとか、諸説があってはっきりしない。
道玄坂とBunkamura 通りの分かれ目にガールズファッションの発信地「109」がある。 かつてここには「恋文横丁」と呼ばれる呑み屋街があった。 一角で古本屋を開いていた元陸軍将
校が、米兵と親しくなった女性たちのために英文のラブレターを代筆していたことから、丹羽文雄がそれを題材に「恋文横丁」という小説を書き、たちまち有名になった。 少し前まで、現在「ヤマダ電機」のビルが建っている所に、「恋文横丁此処にありき」という大きな看板が掲げられていたのをご記憶の方も多いだろう。

稲荷橋
山手線の内側にはいる。 暗渠を流れていた渋谷川がここから顔を出し、極めて人工的な「水路」となっている。
渋谷川は、玉川上水の余水に始まって新宿御苑のあたりを南進し、支流を集めて原宿から渋谷へと流れていた。 渋谷駅の近くで、暗渠となっている宇田川の水を加え、恵比寿・広尾を経て、古川橋の手前で「古川」と名を変える。 さらに 一の橋へ進み、金杉橋(浜松町)の先で東京湾に流れ込むのである。

金王八幡宮
渋谷氏(元・河崎氏)の居城である「渋谷城」は、宮益坂を少し上った右側、いまの「金王八幡宮」を囲むように築かれていた。 茅輪(ちのわ)をくぐり災厄を逃れる。

渋谷氏が城内に創建した「金王八幡宮」は、当初「渋谷八幡宮」と称していたが、源義朝に仕えていた渋谷重家の次男・金王丸が剛勇無双で、その名を全国にとどろかせたことから、この名で呼ばれるようになった。 江戸時代になって、徳川家光が三代将軍に決まった時、乳母の春日局と教育係の青山忠俊は大いに喜び、青山家の信仰する「金王八幡宮」に門と社殿を寄進した。 いまも残っており、渋谷区の有形文化財に指定されている。
八幡宮の裏手の「東福寺」には、1,704年に造られた梵鐘があり、銘文から渋谷という名の起源や、渋谷の歴史を読み取ることができる。 また、左手の「豊栄(とよさか)稲荷」には 11基の古い庚申塚が並んでおり、渋谷姓を刻んだ 17世紀のものもある。

氷川神社
歩いているのは裏通りだが、知られざる有形文化財がいくつもあった。

恵比寿方向へ進むと「氷川神社」が見えてくる。 4,000坪もあるという広大な敷地に木々がうっそうと茂り、しばしばテレビドラマのロケに使われるというのもうなずける。
石段の左手に立派な土俵が保存されているが、ここは、大井の鹿島神社、世田谷宮坂の八幡神社と並び「江戸郊外三大相撲」の一つに数えられていたという。 いまも子ども相撲大会などに活用されている。

温故学会会館
氷川神社から恵比寿方向へ下りて行くと、文化庁の登録有形文化財「温故学会会館」がある。 塙 保己一 畢生の大事業である「群書類従」の版木を管理する目的で、昭和2年に建てられた。 空襲にも耐えて風格ある姿を見せている。
塙 保己一は 1746年に 現・埼玉県本庄市の旧家に生まれたが、7歳にして失明。 按摩・鍼・琴・三味線などを習うも上達が遅かった。 しかし、記憶力と向学心が尋常でなかったことから、学問の道に進むことになる。 保己一が生涯に記憶した本の数は6万冊といわれ、どの部分を問われても即座に暗唱できたと伝えられる。

広尾小学校
近くに建つ広尾小学校の校舎も、歴史的建造物として国の有形文化財に指定されている。 昭和7年に建設された校舎は、当時珍しい「インターナショナル・スタイル」を採用した機能主義的な設計であった。 にもかかわらず、壁面の一部には表現主義的な装飾が施され、そのミスマッチが面白い。 
また、東北隅には高い塔があり、これは、同居していた消防署が火の見櫓として使っていたという。

福昌寺の花供養塔
近代的な建物の寺内に入ると花供養塔があり、いくつかの花が咲いている。
阿弥陀石棺仏は、和歌山県那賀郡から運ばれたもので、造園業が寄進したものだという。


<エビスで キリンの懇親会>
さて、昨今は吉祥寺に次いで「住みたい街」の第2位にランクインしている恵比寿だが、以前は渋谷と目黒に挟まれた地味な住宅地だった。 しかし、1994年、サッポロビールの工場跡地が「恵比寿ガーデンプレイス」に生まれ変わると、街の様子が一変して、都内屈指の “おしゃれタウン”、 “グルメタウン” ともてはやされるようになった。

雑草が伸び放題の工場跡地に、引き込み線のレールが赤く錆びていた光景を記憶している者にとっては、まさに隔世の感がある。 そもそも山手線の「恵比寿駅」にしてからが、「ヱビスビール」積み込み用の貨物駅に始まったものであり、地名の恵比寿も ビール名に由来する。 されば、夕暮れ迫る駅前の盛り場で、ヱビスビールのジョッキを傾けながら熱き(暑き?)1日の余韻にひたるのも、この地の歴史に対する正しいリスペクトであるにちがいない。

恵比寿でキリンの一番搾りの生ビールで始まるのが面白い。 2 時間飲み放題で、食べ物がどんどん出てくるので忙しい。 しっかり2 時間懇親をして、お別れとなりました。
 

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