・ 諏訪時代 |
1877年(明治10年)4月、長野県諏訪郡に生まれた伊藤長七は1894年(明治27年)に長野尋常師範学校に入学し、教育者への道を歩み始めました。
1898年(明治31年)、長野師範を卒業した長七は、諏訪高島小学校で個性的、創造的な、自由と感動の教育を実践しました。 校外散歩、雪中行軍、陣取り戦、遠足登山、野営など活発な行事を作り出し、ある時は公園で生徒に英雄伝を語り、ある時は不幸な生徒の家でその子と共に泣きました。 彼の家は、夜毎、訪問する生徒で一杯という状況だったのです。
極端な厳粛主義をとっていた当時の教育界からは、教師の威厳を損なうものとして非難され、神聖な教育を汚すとまで攻撃されました。 そのために長七は、高島小には1年しかいられず、翌年は
なんと1年の間に下諏訪、岡谷と2校の転勤を余儀なくさせられたのです。
そして 3年目。 諏訪郡内の各校は長七の言動を恐れ、彼の受け入れを拒否。
あわや 教育界から追放 されるところまで追いつめられました。 幸いにも 小諸高等小学校 に転任することができましたが、その小諸も1年で去ることになるのです。
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諏訪時代の伊藤長七(右端) |
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・ 「小諸を去る辞」 |
こうして、長七はわずか3年間の諏訪・小諸での教育実践と、教え子たちへの多大の影響を残し、信濃教育界を去ったのです。 伊藤長七は小諸を去るにあたり、3カ年の教育実践と思い出を込めた「小諸を去る辞」を詠みました。
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ああ我、またついに小諸を去らざるべからざるか。
懐かしき哉、小諸の土地よ
御身の四周をめぐれる山と水と
御身の身辺をかざれる森と花と
御身の上を流るる清涼の空気と
御身が生みたるあどけなき少年少女と
御身の中にそばだち見ゆる小諸小学校の建物と
また特に我が受け持ち百三十人の少年を教えたる薄暗き土蔵と
楽しかりしは晩春の修学旅行なりき。 行を共にせしもの三百人。 小諸の停車場を出発せし時の勇ましさ。 あるいは春日山頭、瞳を日本海の白帆にはせて、越州の山河をさしつつ、いにしえ、英雄の壮図を談じ、あるいは北海の豪涛に脚を洗わせつつ真砂の上に鰯の網を引き、直江津の客舎に我が愛しの子らと一夜の夢を結びたること、いずれか忘れ難き思い出にあらざらん。
我が高等一、二年の男女生徒と共に催したる運動会よ。 げに、いじらしきは彼ら小国民の意気なり。 無心の少年少女が彼らの先生と共にいかにかいがいしく走り、いかにけなげに相撲せしか。
小諸学校に赴任以来、一日として安かるべき日は無かりしが、特に去年冬、我が校内に正義の光踏みにじられし時、あまりの馬鹿馬鹿しさに、学校を去るべき一種の決心を固めつつ、吾教室に臨みしが、百余の児童只無心にして吾を頼らんとすべき顔容をみて、吾は吾決心の如何に残忍なりしを悟り、双眼の涙にくもるを覚えざりき。
顧みる、信濃教育界における我が三カ年の歴史を思えば、恍として只夢のごとし。
さらば浅間の山
さらば千曲の川
さらば小諸の知己
さらば我が学校の諸君
さらば我が教えの庭の子等
さらばよ故国信濃の山河健在なれ
いざ別れん哉
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・ 高等師範に入学 |
信濃教育界を去った長七は、東京の高等師範学校への入学をめざしました。
入学に必要な長野師範学校長の推薦状がもらえないことが分かると、長七は早朝、校長宅玄関で「推薦状をもらうまではここを動かぬ」と座り込み、そこで出された朝食を
5杯お代わり したというエピソード を残しています。
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ご飯を食べさせた長野師範学校校長は 正木直太朗 で、これは長七が諏訪時代の出来事です。 結局、正木直太郎校長からは推薦状はもらえず、正木校長が埼玉師範の校長として転出したあとの、深井
弘 校長に書いてもらったということです。 |
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このことから、長七は諏訪時代から高等師範に入学するための行動を続けていたことが分かります。
高等師範を卒業した長七は、東京を中心に活動し、13年間、同校附属中学で教鞭を執りました。 |
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