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左下に 長七のサインがある 開校記念写真 |
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・ 何もかもが豪勢な時代だった |
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第6代 真田校長 |
長七の教え子で、後に小石川高校の校長となった眞田幸男氏は、この創立間もない学校について、次のような思い出を語っています。 |
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何もかもが豪勢な時代だった。 大正八年といえば、第一次大戦の後の自由主義の波が日本全体を洗っていた時だ。 物資も豊か、人の心ものびのびしている。 そういう世の中に、新しい府立中学が生まれ出たのだ。 それだけでも新鮮なものを感じた。 そこへ伊藤長七という一代の
ロマンチストが、校長さんとして任命されたのだ。 世間の「人気」が、わっとこの学校に集まった。
折り襟 ・ネクタイのしゃれた制服、入学試験のメンタルテスト、夏休みの転地修養隊、創作展覧会 等々。何もかも型破りで、世人の耳目を聳動した。 理科教育の斬新方法も喝采を浴びた。 |
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第一回 創作展 : 新聞記者をはじめ 数千人の見学者があったという |
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■ 立志 ・ 開拓 ・ 創作 |
長七はことあるごとに「立志 (戦後は自由に置き換えられることが多い) 」、「 開拓 」、「 創作 」についても熱弁をふるい、母校の三校是として定着したのです。
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(開くのに 少し時間が掛かります) |
以下はその概要。 参考までに 登場する偉人のプロフィールを載せました。 |
「 ”立志” とは、昔、支那周代の大聖人、孔子 が十有五で志を立て、学問を始められたように、それとほとんど同じ年頃の日本の男子が、高等普通教育を受けるために中学校に入学する志を立てることである。」
「かの マゼラン の世界一周、かの博士 ヘディン の中央アジア探究、あるいは ナンセン博士 の極地探検、いずれが ”開拓” の精神の発露にあらざらん。
さては 高峰譲吉博士、野口英世博士 のごとき、あるいは南米各地に移住植民せる同胞の若き男女のごとき、これらを真の開拓者という。
しかり、しかれども、我らのいわゆる開拓者は、決して遠征家、海外移住者の如きに限れるにあらず。 キュリー夫妻 のごとく、マルコーニ のごとき者、齢八十にして発明の意気なお颯爽、過去に成功せし 一千百種の発明を基礎として、さらに新たなる大発明を企てる エジソン博士 のごとき、これを真の開拓者という。」
「”創作” とは、自分の力でできるだけの仕事を、自分でなし、自分で考え、自分で工夫し、他人のまねでない、何かを作り出すということである。」 |
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・ 男女共教 |
普通なら「父兄」と書くところを、長七は「父兄母姉」と書いています。
女子校に男子教師がいるように五中には女子教師がいなければならないと、英語会話、英作文、漢文にと 積極的に女子教師を迎えました。 |
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物井先生の 英語の授業風景 |
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・ 自治の日 |
五中の教育の特色のひとつは、自治に基づく教育。 長七は、年に1日、「自治の日」をもうけ、この日は教師を小学校へ参観に出し、学校の管理を生徒にゆだねました。
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Copyright Shiyu Alumni Association. All Rights Reserved |
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当時は画期的だった 制服 |
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「転地修養隊」は今で言う体験学習。
座学ではなく、自然の中で、農作業を手伝いながら学び、生徒同士の友情を深める場でもあった。 |
生徒を引率する 伊藤長七校長 |
五中の転地修養隊は長野県の北佐久郡志賀村の法禅寺を宿舎としていた。
この村の有力者の神津 猛氏は島崎藤村の「破戒」出版の大恩人である。
神津猛氏と長七を引き合わせたのは、なんと 「島崎藤村」 と言われている。
藤村と長七とは関係があったのです。 |
転地修養隊 1920年(大正9年) |
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在籍 1922年(大正11年)〜
1930年(昭和5年)3月
男子中学では全国初の女性教諭。
袂のはしを持たれて、いかにも恥ずかしげに教えていたとのことです。 |
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在籍 1926年(大正15年)4月〜
1929年(昭和4年)9月
長七自らが外語大に引き抜きに行った。あだ名「お花ちゃん」。
ある日チョークの箱にヘビが・・・・。 |
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Miss ジュネビーフ・コールフィールド
: 英語会話 |
在籍 1923年(大正12年)11月〜
1937年(昭和12年)2月
あだ名は「ミソ・コンビーフ」 それから
生徒が騒ぐと「ビー、クワイエツト」 で 「コワイヤツ」
ウィリアム・ウオレン著(吉野勇一訳)の「失踪」(昭和54年刊)に彼女が登場している。 この本はタイのシルク王と言われた米人ジム・トンプソンが1967年にマレーシアで失踪した物語。
トンプソンはタイのバンコクで盲人協会学校を創立し経営するコールフィールドを尊敬し、観光名所のトンプソン家の観覧料を全て寄付している。(同窓生の訪問記はここで読むことができます)
彼女の学校には6歳から14歳までの盲目の生徒150人が学んでいた。学校の創立は五中をやめてまもなくの1939年。1972年に85歳で亡くなった。 |
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